隙は作るべき
ご無沙汰してます。
kiriです。
前回の投稿から一ヶ月弱も空いてしまいました。
ぽつぽつ書いてみたいことは出てきてたのですが、いざアイデアを出してみると展開する話の理論武装をしっかりしないと、と考えてしまいまして。
これだけじゃまだ考えられる根拠として足りないのでは?
もっとしっかりした論理展開でないとただの突っ込みどころ満載な話になるのでは?
etc...
こんなことを考えているうちにまた一つ話の種(寄り道)ができました。
「そもそも論文でもないのになんでそんなにしっかりした話せなあかんねん!!」
何せzakkiなんでね。
今もお酒片手に打ってます。
どうでもいいですけどアルコール依存症の人は一人酒が多いらしいですね。
- 誰もが納得してしまう話の需要は小さい
どうも自分が今使っているデザインだとデフォルトの見出しが使えないそうです。
見出しとわかりにくくてすみません。
本題。
よく話にオチがあるって言うじゃないですか。
オチってのは所謂”笑えるところ”です。
その話のどんでん返しな結末だったり、緩急をつけて一気に緊張を解きにくるものだったり。
あれは話の序盤~中盤に対して、聞き手が暗黙のうちに「期待していること」の代弁だと僕は思ってます。
その暗黙のうちに期待しているか否かを、聞き手が自覚しているかどうかは問題ではないです。だってオチで笑うのって自分が予想してなかった(期待していたと自覚していなかった)展開の時もあるでしょ。
代弁、つまりはツッコミ。
オチをつけるまで話し手一人がやることも多々あるどころか漫才以外の場では大抵そうですが、聞き手も話を聞きながら心の中で今か今かとツッコもうとしているわけで。
んで最後にオチが来るから、話を展開する方も受け取る方も互いに満足感(「やっぱりせやったか~!」「そんなんあるん!?」)を得て、きれいに話が終わる。
でもオチがない話ってのは、最後に期待される話の展開までの筋道が一本道。
つまり「そういう結末を迎えても何ら不思議はない」ものであって、どんでん返しどころか緩急すら感じられない話。
そこにツッコミを構えて話を聞き続けることのできない聞き手が退屈を覚えるのは必至だし、そんなものは当然誰も満足しない。誰も得をしない。
「オチが期待することの代弁なら、聞き手の予想通りの結末ってオチでもなんでもなくない?」というツッコミが入りそうなので先に考えを言わせてもらうと、そういった場合のオチは大抵話し手の言葉選びやタイミングに工夫があったり、空気を掴んだ話し方をしていることが多いと思うので別物かなと。
勿論「誰が」「誰に」言うかも大事なポイントだと思う。いつも面白くないと評される人間には理不尽に感じられますけどね。
話が長くなりましたけど、一本道で、その結末に簡単に納得できてしまうような、ある種完璧な話は需要が小さいな、と。
明確な根拠を示して新しいことを世に知らしめる論文以外で、そんな話は多くの場合喜ばれないです。記憶にも残ってくれない。
- そしてブログは
論文じゃないんで!!
持論いっぱい書いてもいいじゃない。
というか人に娯楽目的で(?)読んでもらうものでしか(現状)ない以上、あまりに完璧な論理展開は引かれます。
むしろツッコミどころを用意するくらいの話の方がコミュニケーションツールとしても有効になると思いませんか?
昔見た話で、「ネットでは素直に『教えて下さい><』と書いても教えてもらえない。ドヤ顔で『~は××である』と間違った知識を書き込んだ方が正しい指摘がたくさんくる」みたいなネタがあった気がしますがまさにその通りじゃないですかね。
ある意味楽に適当に書いた方がお互いのためです。
- そして僕は
じっくり一人で考えてアホみたいでしたね。
ブログなんで雑に考えて問題なかった。
そしてこの辺の話もひっくるめて、もう自分の考え吐き出すつもりで全部いろいろ投げ込もうかと思ってます。
だって現実で本音ぶちまけられる環境ってそうそうないですよ。
身内にすら話せないこと滅茶苦茶たくさんあるのにネットでまでいい顔してられないですよ。
美醜気にしてたら結局誰にも話せず一人でふさぎ込んで考え込んで結論出ず~みたいな結末しかないですし。
正直醜くなるとは思いますが、読んでいただける人に読んでいただけたら僕はそれでいいです。
自分の考え方がマイノリティだってことは自覚してるので。
では最後に次回予告だけ。
『何故食べ物の好き嫌いだけは許されないのか?』
ではでは~。