自分が自分を大事にしてあげなくなったら終わり
私事ですがPCを買いました。
今のPCは6年目の終わりを迎えようとしていて、春に7年目に突入する予定でした。
今でも異音なく動くっちゃ動くんですが、ノートなことを考えるともうすぐ寿命だろうなと。
じゃHDDだけ換えればええやん?って話なんですけど、SSDに換えるのにも2万近くするんですよね、512GBで。
HDD以外にもイヤホンジャックも死に絶えつつあるし、メモリ増設しても各種ファイルはよく応答がなくなるので、じゃあいっそIllustratorが満足に動くことも期待してPCごと買い替えてしまおう!と。
今じゃ毎日使う訳でもないのでかなーり迷ったのですが、身内からも「kiriはお金を使わなさすぎ。この一年頑張ったんだし自分にそれくらい買ってあげてもいいじゃない」と言われたのが後押しになって買いました。
ぶっちゃけ買い替えることを思いついてから実際に買うまで1日しかかからなかったんですけどね(この前週まで1000円の鍋を買うかどうかで一週間迷い続けていたのはまた別の話)。
手元に届くのが楽しみです。
そう、「自分にそれくらい買ってあげても」。
僕は今月、またひとつ歳をとりました。
大体の人はそうだと思うんですが、誕生日を迎えて歳をとったって感覚はあまりないですよね。
ぼくは1年前から4年前くらいまでの記憶が殆どないので、特にそうだと(自分で)思ってます。
正直、まだ4年前の年齢だと言われても素直に信じてしまうレベルに。
誕生日を迎える前だったかいつだったか、誰かから聞いたのか自分で自然と思いついたことなのか。
「自分が自分を大事にしてあげなくなったら終わり」
こんな言葉が気付いたら僕の頭の中にありました。
こんなことを書いていたらまた自分で自分を追いつめてしまう気もしなくはないのですが、実際のところこれは真理なんだろうなと。
多分、突き詰めると「自分を許してあげる自分の存在を、自分の中に置くことを認めてあげる」ことのような気がします。
大多数の人間にはどうでもいいことだし、そんなことを意識したり考えたりしている人間の方が少数派だし、もっと言えば多数派の人間にとってはこんな話はされたら疎まれるものだと思う。
でもブログは平気な顔してつらつら書けるからいいよね。独り言だし。
最近、友達がこんなことをSNSで呟いていて。
「鬱の人ってなんでこんな暗い思考なんやろ。一生わからんと思ってた。」
数か月前に鬱と診断されたその子はこのブログを知らないから見ることはないけれど、きっとこれに近いものに悩まされていることは想像に難くない。
ただ僕は、健常な人(あえてこういう表記をします)がそうでない人を理解するのは難しいし、本音を言えば面倒くさいのだろうということも分かる。だって彼らはそんなことそもそも考えもしねえし聞いても分かんねえんだもん。
健常でない大半の人はそんなことまでも分かってる。
だから話さないし、仮に話しても健常な人が想像できる範疇のものを想像しやすい言葉で伝える。でもそれじゃ全然伝わってない。結局理解されない。
でも理解されたいという気持ちは絶対に持ってる。だって彼らが抱える問題は孤独感が前提にあるのだから。
かと言っても僕は、健常な人たちから歩み寄れとも言えない。
彼らは彼らの人生と毎日があるわけで、そこに挟める他人の枠は一握りで、そこにわざわざ恋人や身内でもない人を入れたりしない。
挟み込めば途端に時間と体力が持っていかれる。分からないことに費やすそれらは半端な量ではない。
とれる選択肢は二つ。適当に濁して距離を置く(距離を置いた付き合い方をする)か、すっぱり縁を切るか。
実体験で言えば、前者が多かったかな。
寂しいけど仕方ないよね。でもやっぱり会うたびにその事実が頭の中でちらつくのは個人的にしんどい。逆恨みでもなんでもないことは申し添えたいけど。
もちろん、この二択をとらずに枠を割いてくれた人もいたけれど。それは希少な救いだと思う。
果たして、そこまで分かっていて僕は、周りの健常でない人の数が片手を越えそうになっている今、彼らに対しどんな選択肢をとろうとしている(とっている)のかな、と思った次第です。
自分が今どの辺にカテゴライズされるのかは断言できないけど、周囲の目に「健常な人」と映っている今、彼らからどんな期待をかけられ、彼らにとってどう接しようとしているのか、一度自分を見つめ直さなきゃいけないと思った2月でした。
相変わらずまとまりなくてすんません。
ここまで読んでくれて感謝です。もし読んでくれてる人がいたら本当に感謝したい。
今回割と頭の中をフィルターを通しつつもそれなりに広げた気がするので。
醜かっただろうにありがとうございます。
ではでは~。